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」はYouTubeなどでも活躍されている表博耀(おもてひろあき)さんの初著書です。ダークサイト判定
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本の概要
本書の内容の一部を簡潔に言うと、地球文明の始まりは縄文文明で、その時の賢者や覚者が世界中の物質文明や精神文化の元になったということや、”闇側も光の一部であり、役割が異なるだけ”ということが書かれています。
本の要約
普段使わない漢字や単語が多く、読むのが少々大変でした.
ざっくり要約すると前半部分は修験道のこと、国家神道と古典神道の違いについて、後半部分は今後の日本人の使命や役割について書かれています。
以降、各見出しごとの内容を箇条書きで要約しています。
前書き
- 古典神道には”最後はすべて抱き参らせる”との神の言葉が残っている
- 「レイキ」も古典神道の霊学や霊術にそのルーツを見ることができる
- アメリカの「ニューソート運動」も古典神道の世界観と密接に関連している
- 闇の勢力も本質は光の一部で「悪のお役」。ディープステート(DS)たちに対しても戦いを挑むのではなく上手に抱き参らせて社会を変えていけばいい
- 光一元の原理である「すべての元は一つ」は人類共通の霊性
中西旭先生は戦後、GHQに対して神道は決して一神教のような排他的で攻撃的な宗教ではないことを塩分で説明された。
神仏習合の「古神道」と神仏分離の「国家神道」
- 古神道:習合的で天然自然の神気を取り入れ、天からの神示を降ろしてきた。相対するものを和合して新たに創造する
- 復古神道:国学的で排外的主義的な傾向が強い
- 古神道と古神道が混在した「教派神道」と呼ばれる集団もいる。明治以降の国家神道(神社神道)に対する呼び名で、神道が国教化した際に「宗教」として認定された教団のことで、金光教、天理教など14教派が生まれ、一般に神道十三派と呼ばれている。出口王仁三郎の大本教も教派神道に含まれる
国家・官僚主義的な表の国家神道と縄文時代から続く裏の古神道
- 明治維新後に新政府が伊勢神宮を中心に全国の神社を統治したのが国家神道で神道の国教化を進めた
- 新政府は神仏分離令によって神社から仏教的要素を徹底的に除外し、全神社を政府直接の支配下に置き、伊勢神宮を全国の神社の総親神と定め、社格を制定して神社の公的地位を確立
- 明治中期には教派神道、仏教、キリスト教の3教が国家神道に従属する事実上の公認宗教となり、明治の国家神道体制が成立した。これらは将軍が統治する江戸幕府から天皇を頂点とする近代国家体制に転換するための政策で、これ以降、伊勢神宮を頂点として皇室祭祀(さいし)や天皇崇敬(すうけい)のシステムと全国の神社が組み合わさるようになった
- その結果、国家神道(神社神道)は非宗教として国家の支援や保証を受けれたが、神仏混淆の社寺は廃止された
- 神仏分離政策の影響を最も強く受けたのが、神道と仏教の要素を併せ持った山伏・修験道だった
- 国家神道は欧米の一神教に対峙するための国家・官僚主義的な表の神道
- 縄文から続いてきた古典神道は国家神道の裏側にあって神仏のみならず、外来のあらゆる宗教のエッセンスや行法を取り入れながら日本人の精神文化や生活様式として取り入れられていった
自然と共存し平和社会を築いた縄文人の叡智が古典神道に引き継がれた
1万5千年もの間、戦争や人殺しをせずに大自然の循環の中に神様の息吹を感じ取って万物と共存したてきた縄文人の叡智が古神道や修験道に引き継がれている。
古神道や修験道の根底にあるのは神様と共に楽しく暮らすための精神文化や生活様式であって、西洋的な宗教感ではない
なので、これらを明治以降の教派神道や国家神道などと区別する意味で古典神道と呼んでいる。
国家神道は第二次世界大戦終戦後にGHQにより廃止され、国家権力からは分離され、その後、神社本庁が設けられ、当時の文部大臣所轄の包括宗教法人として認められ、神社神道として復活し、現在の日本国内にある約10万の神社のうち、8万社あまりが神社本庁に属している。
しかし、現在の神社本庁も伊勢神宮を本宗としていて、天皇家を中心とする「古事記」「日本書紀」の歴史観に基づいている。
歴史は改ざんされてきている。今の神社本庁に属している神社は時代的な影響を多く受けている。
これらとは違い、古典神道では、古史古伝の歴史観に立脚しており、従わない神々として葬られた土着の神々(国津神)を祀り上げ、名を継承している。
※古史古伝とは、竹内文書、宮下文書、ホツマツタエ等々のこと。
制圧された側の氏族の歴史書(古史古伝)には超古代の日本のスメラミコトの先祖が地球に降り立った頃からの歴史など、超古代文明の歴史が書かれている。
例えば、竹内文書には神代文字で3000億年前からの歴史が記載されており、無から宇宙が創造された後、スメラミコトによって世界の国々と五色人が創られ、その兄弟姉妹がいる場所に名前をつけたと書かれてる。そして、神代文字(ヲシテ文字)で書かれた「秀真伝」では、天照神は男神で、その妻が瀬織津姫であることや、「アワ歌」の言霊が万物の発生原理とされている。
このように、古史古伝には、縄文文化を連想させる天然自然の理(ことわり)が書かれている。
いっぽう、古事記や日本書紀は当時のヤマト政権が自分たちの都合のいいようにつなぎ合わせて編纂したもので、さまざまな矛盾点があり、神々の名前も交錯しているため、記述内容の解釈も多岐にわたっている。
縄文人の末裔が各地で文明・文化を築いて、魂の故郷に里帰りしてきた
近年になって古史古伝の内容が専門家によって裏づけられてきており、そのなかでも「日ユ同祖論」がよく知られている。古代イスラエルと日本と繋がりの判りやすい例が山伏の恰好で、他にも神輿、祭礼、相撲、カゴメの歌などの童謡も共通している。
イスラエル10支族の先祖であるノア一族は、日本から大陸に渡った人々の子孫。
縄文には高度な文明があって、それが世界に渡った説が有力視されていて、古代神道の記述とも合致している。
古典神道は闇も光の一つ「光一元の原理」
光一元とは西洋思想のように光と闇を対立軸でとらえるのではなく、闇もすべて光の一部という捉え方。
光に色は無く、無色の光が目を介したときに複数の色に分かれて見えているだけ。
古典神道では人種の祖とされる五色人も元は一つで、それが色分けされただけで人類皆兄弟という考え。
人間も人は一つで、そこには一切の差別や序列は無い。誰もが光の存在であり神の分霊、神の子。
古史古伝の歴史を土台とする古典神道では、原始地球文明を築いた縄文人が五色人に分かれていったということ。
縄文人は今の日本列島だけではなくポリネシアなどの海洋地域にも存在していた。
排他性の強い一神教は敵を作ってしまい、世界に対立と混乱を生んでいる原因になっている。
現在、縄文の古典神道が注目されているのは1万数千年もの間、平和を維持してきた宗教以前の教え、人類共通の精神文化に立ち返らなくてはならない時期だから。
スサノオ/ツクヨミが世界に知らしめた縄文の教えである光一元の原理は、世界各地を巡り、土御門家に入った。
人類が仲良く和する岩戸開きの言霊【あちまりかむ】
「あちまりかむ」とは創造神への言霊で、自分たちでは立ち行かないので「神さま、どうぞよろしくご統治ください」という意味。
闇も光の一部なので何一つ排除すべきものはない
日本人が目覚めるためには、紀元以前の歴史にもきちんと目を向ける必要がある。
闇は光の一部なので、何一つ排除すべきものはないから。
ゆえに、今、これまで隠されていたものが明るみに出てきている。
古史古伝はヤマト王権にとって、表に出ると都合の悪い内容が書かれているので「偽書」扱いされてきたが、各王朝の子孫によって当時の歴史が秘密裏に継承されてきた。それらが山伏・修験の世界に集約して伝えられ、古典神道では当たり前のように語り継がれてきた。
現在は研究家によって、世界の言語のルーツも縄文日本だったということが徐々に明らかになってきている。
世界中に残っている神代文字やペトログリフ、カタカムナなどからもわかるように、縄文時代には高度に発達した文明や言語があり、海を越えて世界的に交流をしていたことは明白。
頭ではなく毛穴で感じるのが古典神道の要
大自然と超化学が融和し、精神性が中心の縄文文明は気候変動による寒冷化で大陸からの渡来人たちによって、水田稲作の弥生文化に移行したが、自然と調和する生活様式は山の民に受け継がれた。
それがいわゆる、「鬼」「サンカ」「山伏」などと呼ばれた人たちで、権力構造や利便性に依存することなく縄文人の末裔として山の中で独自の生活文化を営んできた。
古典神道は縄文以来の自然と共生する生活様式であり、普遍的な精神文化。
元の一つが枝分かれする前の人類の基礎文化を霊性と呼ぶなら、その後に世界におこった宗教は、政治権力に絡み合って枝分かれした後の体系。
ここに、官僚主義的な神社神道と縄文的な古典神道の違いがある。
地球王朝の発祥は縄文、古代日本とユダヤは同祖、日本は世界のひな型といったことは当たり前の話。
民族、国境、宗教などの概念は、偽政者が考え出した狭い人為的な枠組み。
今は常識とされている「政教分離」の概念も、政治的な思惑でつくられた風説に過ぎない。
日本は、元は一つの光一元の原理を知っていたので、そこから枝分かれしただけの人種間の差別や宗教間の争いには無頓着。今はいろんな人が同じことを言うようになり時代が追い付いてきた。
この世の闇は光の一形態としての役割がると捉える
古典神道は宗教ではなく、縄文時代からの伝統的な精神文化・生活様式なので、宗教以前の霊性や霊額を重んじる。
霊性とは「すべての元は一つ、光である」という全人類共通の魂の記憶。
万象万物は祖神から分かれた分霊で大元は一つの光。
その光が時代や地域によって様々な色に変化して、多種多様な姿を見せているだけ。
古典神道では、この世の闇も、光の一形態と捉え、闇なりの役割があるとみる。
「光」対「闇」は二元論なので、これが人種や宗教間の争いの元になっていた。
これらは善悪正邪という価値観に囚われ、しかも人間には自我があるので、それが立場や時代によって変化する、いい加減なもので、普遍的な天然自然の理ではない。
日本人の役割は二元論を超えた光一元の世界があり、それがこの世においても実現可能であることを自らの実践の中で世界全体に知らしめること。
そして、最長老民族として「光一元」「人類は皆兄弟」「誰もが神の分霊」ということを広く世界に知らしめ、それによって人類の魂の覚醒をはかる役目がある。
今、日本に生まれてきている人たちは、長い輪廻転生を通して悟りに近い段階で、今回の人生で悟ることを決めてきている人は少なくない。
悟ることをためらう必要はまったく無く、さっさと悟って魂の記憶を呼び覚まし、己の役割・使命を果たさなくてはならないのではないだろうか。
そのために必要なことは「祈り」や「神楽」。
祈りによって神様とつながる回路が活性化していれば、神との息が合って、必要な時に必要な事、モノ、情報が得られ、考え方も変わることがある。
先祖供養で因縁を解き、過去のしがらみを超えて和することができる
神人合一の古典神道は、人は神にもなれるし、神仏習合の観点から神様と同様に先祖霊を弔い(ともらい)祀る(まつる)のも子孫の重要な役目。
なので、常日頃から先祖に思いをはせて感謝の気持ちをもって手を合わせたり、親族が無くなった時にはきちんと供養することが大事。
先祖供養は家系的なカルマの浄化、過去のわだかまりやしがらみを超えて和するために子孫に託された行であって、とりわけ古典神道を学ぶ者にとっては大切な行の一つ。
これは、すべての魂の救済を目指す菩薩行と関連している。
生きている人であっても亡くなった人であっても相手の中の神を見出して、その神に対して敬う(うやまう)ということ
こうした菩薩行は人々の幸せのために自らの使命を果たす「人を助けて我が身助かる」の実践を行うのが真の修行者。
誰もが大いなる意識、神様の分霊として生きているので、みな兄弟姉妹であり、大家族。どんな人であっても家族のように接する。この点が一般的な宗教と古典神道との大きな違い。
本の後半部分
人と人が和するためには、どんな人の中にもある神性を尊重し、礼を尽くすこと。それが神様より直接使わされた「直霊」(なおひ)をいただく人間の務め。
笹川 良一やバチカンの教皇についても記述があります。両者ともDSやCIA説が昔から言われています。実際にそうだったとしても、誰もが神の分霊であり、闇も抱き参らせるという「光一元」「人類は皆兄弟」「誰もが神の分霊」の観点で接しているのでしょう。
本書の後半には”明治天皇すり替え説”や孝明天皇の暗殺等々が書かれています。
- この頃は国外の勢力が、日本の国体を形骸化させ「開国」という間接的な日本支配を進めるか練られていた
- 裏で糸を引いていた、ロスチャイルドの画策によって開国せざるを得なくなったのは今では周知の事実
- こららは、日本の国体の破壊が目的であり、裏で日本の政治家を思うように操るための戦略
- 明治維新以降は国家神道による天皇神格化で天皇の権威を利用した政治の権力者たちが全ての実権を握ることで実質的に祭政分離(政治と宗教の結びつきを切ること)の海外の要人たちをもてなすための政治に堕落してしまった
- こららは現在も続いていて、アメリカに追随するだけの対米従属政策から抜け出せていない
- この原因は、日本と国民が本来の神意を得るための祭祀儀礼(神や祖先の霊を祀まつる儀式)という基盤を失って、世俗的権力のみに固執する政治、外交が続けられているから
- 倒幕派がクーデターを起こして政権を奪い取ったのが明治維新であり、孝明天皇暗殺と明治天皇すり替えを画策して裏で政治をコントーロールしてきたのがいわゆる「田布施システム」
- 当時の政治権力者は、霊学と影響力を抑えるため、古典神道に通じる大本教に対して邪教のレッテルを張って大弾圧を加えて迫害した
- 王仁三郎が描いた理想社会建設の夢は政治統制力によってその役目を終えた
- 明治以降、神社神道以外の教団には一宗教というレッテルを貼ることで社会的制限を加えた
- たとえば、それまで神社での参拝時には「二礼四拍手一礼」だったのが明治以降は「二礼二拍手一礼」に変えられるなど、古神道の行法の多くが崩されてしまい、正式な参拝法や祭礼を行ているのは極少数
- 1万数千年続いた古典神道に比べると僅か150年前にできた国家神道は新興宗教のようなもの
- 今の神社神道、すなわち伊勢神宮を本宗ととする神社本庁を頂点として、その傘下にある全国8万社の神社が継承している神話や祝詞、祭式だけが、神代から続いてきた「惟神の道」ではないことは確か
- なので、今の神社には伝わっていない古典神道・古史古伝の歴史観を見直し、祭礼や神楽を復活させることが大事。それができて初めて光一元の世が実現する
- みろくの世は「体主霊従」の文明から「霊主体従」の文明へと移行すること
- みろくの世を築くことが、古典神道家だけではなく、今、日本に生まれてきている魂たちの役割・使命
- 竹内文書も時の権力者によって弾圧された
- すべて同じ宇宙や地球の中にいる同じ生命体であることへの気づきが大事で、それに肌で気づいて魂の記憶が呼び覚まされれば、「なぜ今、日本に生まれてきたのか?」「皆で連携・連動しあって、今、何を成さなければいけないか?」「どんな未来を創らなくてはいけないか?」が自ら見えてくるはず
- 弥勒の世とはあらゆる二元を超えた光一元の世界
- 光一元の世界にいたるには、私たち一人ひとりが神の分霊だるという自覚を持つと共に、誰に対しても神の分霊として尊重し、共に生かし合える関係を築いていく必要がある
- これまでの社会では、お金をできるだけ多く儲けた者が勝者で、儲けられなかった者は敗者という優勝劣敗の世界だった。ところが、今、そのことの矛盾や一握りの裕福層によるピラミッド型の支配構造のいびつさに気づいた人たちが自ら動き出している
- これからは共に奏であう「共同(共働)の原理」の時代に入る
- それはお互いに平等・公平な立場で本音を言い合いながら協力しあい、またそれぞれの役割を果たしながら全体として調和していく縄文のような社会
- 対立する競争社会から、補い合う共同社会に向かうことで、誰に対しても公平に接していなければ罪悪感が生まれるので、自ずからお互いの個性を認め合い、尊重できるようになり、共同意識も生まれることでしょう
- 光一元の世界、すなわち弥勒の世とは、すべての人(色)が平等に交じりあいながら愛と調和という光を輝かせる社会
- 個性というのは、神様から一人ひとりに与えられた天与、つまり生まれ持った天賦の才(てんぷのさい)であって、役に立たない個性はどこにもない
- これまでは偽政者たちが既得権のための国境を設け、自分たちとは異なる思想や宗教などを排除したり、敵視して対立してきた
- この独善性や排他性が争いを生み、さらなる憎しみと暴力の連鎖を生む
- 人類がその壁を超えるには、宇宙や地球人類を創った元つ神の思いに立ち返り、「創造の神はどう思われているか?」を今こそ知る必要がある
- 光である神様は「すべてのものである」ということ
- その万能の神がなぜ万物万象を創造したかと言えば、きっと寂しかったからでしょう
- 創造の源に還るための到達点は、「すべてのものが私である」という神意識に至ることで、そのためには先ず「自分とは何者か?」をする必要がある
- 「私はどこから来て、どこに行くのだろう?」という最も根源的な疑問を持ちながら人生を歩むものですが、それは無意識に神様の思いを感じ取っているから
- 「私とは何者か?」を知るためには、他者の存在が絶対不可欠
- したがって、謙虚な姿勢で人に聞いたり、どんな相手に対しても敬意をもって接することによって自分の個性や存在意義がわかる
- 神様自身もあらゆる人を通して自分という存在を知ろうとしているに違いない
- 物質文明だけが発展すると精神文明は必ず衰退するのは天然自然の原理
- 現代のように物質的には恵まれても心が満たされないのはそのため
- 今私たちに問われているのは、人為的な縛りの中で、他と対立・競争しながら不自由な暮らしを強いられるのか、それとも、国境のない地球共同体の一員としてお互いに助け合えるようなフェアで自由な社会へと転換するのか、このいずれかということ
- 光一元の原理に立ち返ることで、誰とも競争したり敵対することはないし、差別や排除するべき者などいないことがわかるでしょう
- そのためには、縄文の遺伝子を引き継ぐ日本人が内なる霊性を目覚めさせ、国内外の政治家や科学者、宗教家たちと連携しながら、日々の暮らしの中で光一元の原理を自ら実践していくこと。そうれば世界は、その誠の道を見習うことになるでしょう
- なぜ今、この時代に日本を選んで生まれてきたのか?与えられた天賦の才はどんなことなのか?私たちが本当に成さなければいけないことは何なのか?そうしたことに気づけば、自ずから答えはでるはずだ
- 一番身近な家族から始め、お世話になっている全ての人に対して感謝と誠の心(愛と慈悲)を持って接しましょう
- このことは3歳の子供でも知っているが80歳の老人でも実践することは難しい
- これまでの歴史の裏側で何が起きていたのあkを知っておく必要がある
- 謀略が渦巻く国際政治の中でいかに日本人が外国勢力によって物心両面においてコントロールされてきたのかを洗い直すと共に、ここ数年間に世界で何が起きてきたを直視する
- 世を変えるのはたった一人の英雄やカリスマ教祖などではなく、一人ひとりの名もなき救済者
まとめ
日本書紀や古事記などの歴史が好きな場合はより楽しめそうです。
浮ついたスピリチュアル要素は非常に少なく、リアルな体験を基に語られていて、地に足のついた内容でした。
闇も光の一部なので、地球や人類にしてきたことへの断罪を求めるのではなく、価値観を認め、和合することが大切だというメッセージが強く印象に残りました。
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